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ちょっと別の視点からすると、日本にいる外国人に日本語を強要するということは、日本人が外国人の<いいたいこと>を理解する努力を怠り、日本語の社会の中に組み込もうとしている、ともいえるかもしれません。
ちょっと別の視点からすると、Web上のサイトにW3Cの勧告を強要するということは、閲覧者(UA)が不思議マークアッパーの<いいたいこと>を理解する努力を怠り、W3Cの推奨するstrictな社会の中に組み込もうとしている、ともいえるかもしれません。
というか、世界中どこへ行っても母国語で通じるなら、それに越したことは無いけれど、無理だと思いますが。
同じように、現代的な言葉を「正しくない、おかしい」という人々は、そういう言葉で表現される新しい概念・経験を理解する努力を怠っていると言わざるをえません。
新しい概念・経験
がPublicなDTDとして公開されているなら、なんの問題も無いとかいう意見がありそうですが、それはともかく、新しい概念・経験
が、未だ、日本語を使用する範囲に広く一般的に認知されうるものとなっていない可能性は捨てがたく、限られた範囲で使用するなら問題も無いでしょうが、公の場で使用されれば、正しくない、おかしい
という意見が出ることになるのは仕方ないと思います。
そんなわけで、日本語にかかわる試験に携わっている人々が「人と会うときはどのような服装で行くべきか、態度は、声の出し方は、なども総合的な『日本語の能力』だ」ということを平気で口にするとき、私は、「一体この人たちは、どこまで他人を杓子定規に縛ったら気が済むのかな、どれだけ『できない人たち』を作り出したら気が済むのかな。そうそう、あなたたちは自分の頭の中にある<社会>以外を理解する気がないのでしょ?」と思わざるをえないのです。
言語はコミュニケーションに不可欠です。で、この場合、会話をするものがほぼ等価の<社会>
を持っていないとコミュニケーションが成立しません。同じ<社会>
を頭の中に持っている1対1であれば、或いは違っていても、どちらかの<社会>
を相手に説明すれば、コミュニケーションが成り立つかもしれません。しかし、1対多となり、その「多」の<社会>
が貴方の<社会>
と違っていると想定される場合、貴方の<社会>
を説明するより、既にある<社会>
を利用するほうがシンプルで簡単です。
何より<社会>
は、多分、頭の中に
しかなく、現実には存在しないのです。そこで、一般的な頭の中
の<社会>
を想定しながら、コミュニケーションせざるをえず、それは最大公約数的なもので、おそらくそこには新しい概念・経験
などは含まれなくなるものなのです。よって、新しい概念・経験
までをも含めた<社会>
を想定するものから見れば、何故正しくない、おかしい
と言われるのか不思議で仕方ない結果になるのだと思うのです。
そんなわけで、Webにかかわる諸々に携わっている人々が「Webサイトを公開するときはどのようなDOCTYPEで行くべきか、CSSは、ユーザビリティーは、なども総合的な『Webサイトの能力』だ」ということを平気で口にするとき、私は、「一体この人たちは、どこまで他人を杓子定規に縛ったら気が済むのかな、どれだけ『できない人たち(不思議マークアッパー)』を作り出したら気が済むのかな。そうそう、あなたたちは自分の頭の中にある<勧告>以外を理解する気がないのでしょ?」と思わざるをえないのです。
まあ、逆に言うと、頭の固い聴衆(レガシーなUA)のために新しい概念・経験
(XMLとか)が使えないのは馬鹿げている、という話にも解釈できなくはないのですけれど。