カナかな団の躁鬱

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日記

894 所謂正しい HTML の 4

  • 投稿者 首領
  • 投稿日 2005年03月09日 20時56分

いくつか。

ということで、より厳しい道を進み、より高い場所へと進 むという宗教観が成立します。 悲壮な決意が要るらしい。 仕様書という規則を、強制力を持つ「経典」に昇華させないと気が済まない。 そんなことをするぐらいなら、正しい日本語(歴史的仮名遣い)で書いたらどうですか。 文章が存在しなければ、HTML など意味が無い。 新字新かなで書いておいて「正しい HTML」などと言うのは、宗教的に破綻しています。

日本語としてはおかしいけれど、HTML は strict なんて言う相対的原理主義者は胡散臭い。 こういう人は最初に HTML ありきなので、それに合わない日本語は変と言い張る。 これでは筋が通らないので、私は Transitional を宣言しています。

日本語としては正しくない新字新かなで書いているから、HTML は Transitional なんて言う原理主義者も胡散臭い。とか言ってみるテスト。尤も、私も胡散臭いらしいので、一緒ですけどねー。

ところで、使用している日本語によって DTD を選択するのであれば、frameset.dtd は、どういう日本語に使えば、筋が通ることになるんだろう?

適正HTML文書には、どのバージョンのHTMLであるかの宣言がある。 文書型宣言が、当該文書の文書型定義(DTD)の名前を示す ( [ISO8879]参照)。

HTML 4.01仕様は、3つのDTDを規定しており、著者は自分の文書に、次の3つの何れかの文書型宣言を含めねばならない。 各DTDは、サポートする要素が異なってる。

  • HTML 4.01厳密型DTD。これは、推奨しないこととなった要素や属性を含まず、またフレーム設定用の要素・属性をも含まない。 このDTDを用いる文書は、次の文書型宣言をせよ。
     <!DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01//EN"
     "http://www.w3.org/TR/html4/strict.dtd">
    
  • HTML 4.01移行型DTD。 これは、厳密型DTDのすべての要素・属性に加えて、推奨しない要素や属性も含む(推奨しないもののほとんどは視覚的プレゼンテーションに関わるものである)。 このDTDを用いる文書は、次の文書型宣言をせよ。
    <!DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01 Transitional//EN"
     "http://www.w3.org/TR/html4/loose.dtd">
    
  • HTML 4.01 フレーム設定型DTD。これは、移行型DTDのすべてに加えて、フレーム用の内容を加えたものである。 このDTDを用いる文書は、次の文書型宣言をせよ。
    <!DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01 Frameset//EN"
     "http://www.w3.org/TR/html4/frameset.dtd">
    

扨、自分で『正しい HTML 』ってなんだよ、って問い掛けてるので、なんとなく「『正しい HTML 』とは」をググってみました。いきなり【「正しいHTML」とは何か】というのが有りました。2001 年 5 月 18 日と日付が打ってありますから、もう 4 年も前の文章なんですね。

簡單に言ふと。

正しい
  • 1. 道理や法にかなつて、誤りが無い。「──行ひ」「──答」
  • 2. きちんとしてゐる、整つてゐる。「──姿勢」

私は「2」の意味で「正しい」を使つてゐる。「それは本當に正しいのか」と云ふ指摘をする人々は「1」の意味で「正しい」を使つてゐる。この時點で、話はすれ違つてゐる。議論が噛合はないゆゑんは、常に用語法の違ひ。

言葉の用ゐ方に人々がもつと意識的になれば、不毛な議論は確實に減る。

「正しい HTML 」と書いた場合に、上記「2」の意味なら、「仕様に従ってマーク付けする行為」。上記「1」の意味ってことなら、仕様に従うことは前提条件で、更に、「より論理的かどうか等という部分を論じる行為」かな、たぶん。そのへん曖昧なまま「正しい」とか書いてはいけませんね。反省。

おまけ。

體系化された思想も、根本的な部分で「超合理」の世界に入ってしまふものであり、そこに「宗教的」な論爭がはじまる機縁がある。それは重々承知してゐる。

正に「信ずる者は救はれる」の世界だと云ふ事になるのだが、我々人間は、いかなる社會に於ても宗教から逃れる事は出來ない。近代社會がキリスト教社會である事を、キリスト教の傳統を持たない日本人は意識しないが、宗教を意識しないからと言つて、そこに宗教が存在しない譯ではない。

ただ、意識化する事によつてのみ、人は對象物との距離を見定める事が出來る、と云ふ事だけは指摘しておきたい。意識的に宗教的である時にのみ、人は宗教と一定の距離を置く事が出來る。宗教を意識の外へ追ひやる事で、宗教をなくす事は出來ない。


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